どうも、2社経営しながらコンサルしてます。佐藤です。
意見と事実は区別しよう
意見と事実を区別して話せない人には現場は任せられない。
論理的真理と価値観は天と地ほどの差があり、明瞭に考えようとしない人ほどこれを混同する傾向が多く、自分の価値観を真理化しようとするから。
経験をベースにしていない意見なんて拠り所がなく、全く価値がないんですね。
例えば、これから独立をしようとしている人に、独立をしたことが無い人が、「辞めた方が良いよ、なぜなら本に書いてあったから」などなど。
苦労した人ほど共感できるようになる
変化することによって見える範囲とか共感できる範囲が増える
目が悪くなってきてコンタクトやメガネを使うようになると良い人悪い人両方の気持ちが理解できたりする
MacからWindowsにいったりするとどっちも分かる
変化してないと見える範囲は少ない
やりたいことに苦しんだ人は苦労に共感し、才能の成長を応援できるようになるが、
やりたくないことに苦しんだ人は、自分以上の苦労を強いるようになる。
別に楽しさに気が付いてもらえればいいだけので、強いる必要はないんだよね。
苦労の楽しさに気が付けば、その後勝手に動くことが経験上わかるから。
自分から進んで楽しい苦労をしてない人ほど、必死になって人に苦労を押しつけるんだな。
あーでも、結局は本人の問題。仕事への意義はいくらでも後付けできるので、どれくらい意義を見つけようとしているかで、同じ仕事でも楽しそうな度合いが変わってくるし。
提案するなって言っているわけじゃないよ
提案には価値があるが、意見には価値がないと僕は考えています。
「意見」は無責任だが、「提案」は責任を負うからですね。特にビジネスの現場では。
意見は安全な場所からでもできるが、提案は入り込まないとできないんです。
では、価値観と事実はどう切り分ければいいのか。
「アウトプットが少ない」は事実だが、「アウトプットが少ない人はバカ」は価値観
「ブログを書いていない」は事実だが、「ブログを書かないと成長できない」は価値観
「あの人はよくしゃべる」は事実だが、「うるさい」は価値観
「あの人はしゃべらない」は事実だが、「しゃべらないから考えていない」は価値観
もう一つ、僕の考えを。
「なぜOOしないの?」が口癖の人を信じてはいけないと思ってます。
OOした方が良いと思うとはニュアンスが違います。
「OOした方が良いと思う。」
「なんでOOしないの?」
の間には深く広い溝があります。
具体的にどう違うかというと、
「なんでOOしないの」は、
聞いた側にとっては「正論だけど、難しいこと」なので、消化不良な感じを受けるはず。
僕はOOだと思うよ は責任のある主張ですが、
なんでOOしないの? には「やっているのが普通」のニュアンスが若干含まれます。
つまり、お説教。言葉は丁寧に使わないといけない。
OOしないの?は「考えている自分と、実践できていないあなた」の構図なので、
つまり、勝手に人に理想の姿を期待し、勝手に失望して責めてるから。
本当に人に動いてもらいたければ、
自分の姿・生き方に共感してもらうしかない。
お説教は意識のベクトルが下。本当に優れた人ほど意識のベクトルを下に向けません、
※もちろん説教する側が実践できているかは別
「僕はこう思う」と話すことはあっても、
「なぜOOしないの?」と、他人の良くない部分を見ながら優れた人になることはありえないんです。
結局の所、悪戦苦闘しながら身につけないとだめで、説教で人が変わるなら人は苦労しない。
何かを実践しようとすればするほど、それが難しい自分に出会う。
実践が難しい自分を目の当たりにすると、「実践している自分」を演出したくなる
自己演出のためのお説教をすることで、
「正しく生きたい自分」「実践しているっぽい自分」の自己愛を満足させようとする
つまり、お説教は「パフォーマンス」。
自分で成果を出して自己愛を満足させない限り、これは続いてしまう。
成果で証明ができるなら、自己愛を満たせるので説教での自己演出は不要(意見の主張はあるはずだけど)
なので、実践していない人ほどお説教をしたがる。
お説教してしまう人は実行しよう。
お説教を受けている人は、その人が出している結果を見てそのお説教は聞くに値するのかを考えよう。
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