どうも、2社経営しながらコンサルしてます。佐藤です。
今日は対案のない批判は不要なのか、それとも重要なのか論についてお話ししていきます。
「否定するなら対案を出せ」への僕の考え。
基本肯定はしていますが、対案無い批判をすると無能課する条件もあると考えています。
大事だけど、この条件でやるのはあかんよねってことです。
では本題へ。
対案ない批判はだめなのか?
「対案ない批判」も重要ではあります。
「言語化されていない微細な違和感」を捉えることができるし、他人の視点を借りることができるからです。
明らかにやばいことに突っ込んでいるとき、とりあえず止めるなどなど。
最終的なブレーキのような役割をするわけですね。
じゃあなんで対案無い批判が無能扱いされるのでしょうか?
僕はこう考えています。
但し、チーム内部の人間である場合は事情が異なる。内部の人間の仕事は問題解決で、問題提起ではない。
これをやるのは顧客や外部の人間の仕事ってことです。
無能扱いされるのは、内部(組織)の人間が対案ない批判をした場合
「問題提起だけ」を行うのは顧客の仕事で、問題解決を行うのが組織やチームの当事者だから、僕は対案の準備が必要かなと思ってまして。
あなたが組織の人間なのであれば、批判だけしていたらだめ。常に対案をセットで用意すること。
外部の人間であれば、対案がなくてもまあ問題は無いでしょう。
問題提起=ここは治した方がいい
対案=こうすると良くなるし解決に近づく
行動=俺はここを担当できるがどうか
この3つ。できるだけ。最低でも2までは用意することですね。
「問題提起+対案+そのための行動」
をセットで組織の人間が提供できないのであれば、ただ問題に騒ぐだけの迷惑な人。
それができないのであれば、問題提起はしないほうが、生産性や批判の受け手のモチベは下がらないはず。
意見を貰うときに批判するなら対案をくれ、がダメなのは、違和感を潰す行為だからです。「批判しても構わないけどせめて(たたき台も作れないしより良いアイデアを出せすらしないなら)言葉を選んでくれ」が正しいのではないでしょうか。
外部からの対案のない批判は信じないようにしてます。
助手席からの口出しで嫌われるランキング第一位は「今いけたじゃん」なのは有名ですが、これが「こういう基準なら行ける」まで加われば有用なアドバイスですが、ほとんどの場合はただの嫌みになってます。
対案のない批判には気をつけましょう。
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