たしかイスラム教だったかの有名な逸話ですが、
2人が親友・1人が敵・7人は他人の世界
と定義しています。
本当に世界がこうだったとして、
フィルターから距離が取れていないと
親友の2人しか見えなくなって「ああなんて世界は良い場所なんだ」となるはずですが、それは正しくはないですよね。
敵しかみえないフィルターを持っている人は、その人自身がすごく攻撃的になっていきます。すごく攻撃的、かつ、あいつはだめこいつはだめってずっと言ってたりします。
一方で他人の7人しか見えないフィルターがある人は、世界は無関心で冷たいんだなあとう印象を抱くはずです。
敵も居ないけど味方もいない、って世界が見えるからです。
さて、なぜこんなことが起きるのかというと、これがフィルターであり、バイアスであり、偏見だからです。
フィルターが強いとまず世界認識が正しく出来ないんです。加えてフィルターが強いと、自分の動きさえゆがめてみせるんです。
これは嘘みたいだけど本当の話。
例えば、
自分が思ってるんだけどできない
ことを思い出してみてください。バック宙とか、綺麗な字を書くときとか、スケボーとか、まあ何でも良いです。
綺麗な字を投影して書こうとしたらそうなるはずですよね。
手が自由であれば。でもそうならないんですよ。完璧に綺麗な字が浮かび上がってくるはずなのに、そうならない。それはつまり、
自分のアウトプットすらゆがめていくからなんです。
フィルターが持つもう一つの補正であり、歪めてみせる機能
なのです。
自分の客観的な動きとかを阻害していきます。
だから、自分を完全に客観的に見ることはできない。
フィルター・バイアス・偏見には二重の残念な構造がある
成功者やスポーツ選手のモデリングがいかに難しいかってことです。
サッカー選手のシュートとかを完全再現することは難しい。
フィルターは0にはできないんです。誰しも、大なり小なり、自分の世界をひいきしながら生きています。
モデリング=成功者をあるがまま受け取ってあるがまま再現するところに意味がありますが、フィルターがぎちぎちにきつかったらあるがままが受け取れない。
結果的に成功できない。
そして、自分で再現しようとしてもさらに歪みます。
ほとんどの人はフィルターが濃い。
同じ事を聞いて同じ事を経験しても同じ事ができない、これって、認識論に問題があるんじゃないかという一つのお話しをしてみました。
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