時々の親族の集まりで感じるんですが、親戚の叔父は病気で足が動かなくなってしまって以降めちゃくちゃキレやすくなった。多分自己実現してる人って怒る必要がないんだと思う。
お茶の間監督には「なんで打たないんだ!」と怒る人はたくさんいるけど、トップをとって「お前らのせいだ!ふざけんな!」と怒る人はいない。あと、たまに友人を車に乗せることがあるけれど、運転中口出ししてくるのは100%車持ってません。
そんなに思うように動かしたいなら買えば、買うのが金銭的に難しいのであれば、せめてレンタカーでも借りたら?と僕は思っちゃうんだけどどうもそうはいかないらしいんです。
車持ってる友達とは性能とか機能とかで盛り上がれますが、持っていない人とはどうもそうはいかない。
僕の周りでも怒る人ほど自己実現をしていないかな、と感じています。
さてこれはなぜでしょうか。
自己実現をするとかっこいい大人になれるから
「自分のアドバイスを聞かないと怒る人は全員やばい人だからすぐ逃げて」ください。
1.本当にすごい人の話は怒ってなくてもみんな聞くから
怒るな、という主張は弱さを受け止めると言う側面はもちろんあるでしょうが、それ以上に「怒らなくても話を聞いてもらえる(むしろ頼られるような)実力を身につけましょう」ということが伝えたいんです。
怒ってるその辺のおっさんと怒ってないF1レーサー、大型ドライバー、メーカーのテストドライバーだったら誰にに運転を習いたいかって話ですね。
怒ってる時って相手が「話を聞きたがってない場合」が割と高めです。でも、本当に実力があると周りが認めてくれたら、話を聞きにきてくれるんですよ。
怒らなくてはならない状況というのは怒らなきゃ話を聞いてもらえない時点で、正直なところ、怒ってる側に実力がない場合が高いんじゃないかと。
怒って話を聞いてもらったところで「めんどくせーな」となって無理やり話を聞いてもらえているだけで、実は怒っている人にはある種の見下しを含んでしまう場合が高いんです。怒って周りがついてくるのはトップ層か甘えを許してくれる人に対してだけで。
例えば、楽器で楽しそうに弾き語りをしている人を見たら真似したくなるけれど、半ギレしてマイクを投げつけてる人に歌を習おうとは思えないはず。
‘長渕剛’に(歌を習いに行って)技術について半ギレされるのと、(習いに行ってもないのに)’その辺のおっさん’に半ギレされるのは意味合いが全く違いますよねw
つまり、自己実現をするほど話を聞いてもらえる頻度が増えるので起こる必要性が減っていき、実力を付けることを忘れないので自分を差し置いて他人の文句ばかりを言うような状況には陥らない。
そして、怒りとは依存です。なので僕は常に怒らないように、という主張をしています。怒りが湧いたら何かしらを相手に依存していると言うこと。
自分の思い通りに相手が動いてくれなければ怒る=相手に何かを期待していると言うこと。
僕は昔、読んだ本でこうならいました。
Youで褒める
Iで褒める
Youで怒る
Iで怒る
と習いました。
「君のおかげで僕の元気が湧いた」
「君のこういうポイントは素晴らしい」
「君がこうだったから僕は悲しんだ」
「君はこうすべき」
I褒め>I怒り>You褒め>You怒り
すべき、とかは相手の状態を伝えているので相手にも観察できますよね。僕はこう思った、とかは相手の情報の中にないから伝えられるとフィードバックがかかって嬉しいんです。
できるだけ自分の主観を伝えられるようにすること。
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