褒めること・評価することは上から目線なのでしょうか、という質問を貰ったことがあります。そのクライアントはYoutubeでそんな内容の動画を見て僕に質問してきたとのこと。
さて、結婚記念日で行ったレストランの料理人に「料理が上手いですね」って褒めてもなんだか褒めるてるのかちょっと分からないし、絶妙にズレている感を感じるように、料理人にとって本当に嬉しいのは「美味しい」「感動した」の方なんですよね。
「上手い」ってのは褒めてるんじゃなくて、実は定量的に評価してる。
そして、どんな分野でも極めると「感動」があると想います。野球、サッカー-、料理、文章、マンガ。
素人は「高い点数」を付けられて喜ぶけど、プロは「感動した」か「ありがとう」でしか喜べない。
もちろん、高い点数を付けられて評価される、オリンピックのような競技もあるでしょう。でも、それは高い点数を付けられたくて競技をしているわけではなく、ただの評価の尺度。
初心者や子供に対してはどうか
結果出した時に賢いって褒めるのと、頑張った過程を褒めるのでは行動習慣が変わります。結果だけをずっと評価していると、人は賢さを維持するために挑戦をしなくなってしまうんです。
1時間勉強して100点を取れる入門ドリルと、10時間勉強して50点しかとれないドリルがあったとする。
毎回100点の方で褒められ、50点のドリルで怒られていたら、当然自然と100点の方ばかり取り組むようになってしまいます。
100点の結果を褒めると、新しい挑戦をしなくなります。
入門ドリルをやり続けて、応用のドリルに取り組まなくなるんです。
これは経営という場面でも起こりえる話で、将来のためにこの商品を売って欲しいと従業員に伝えていても、もしインセンティブの体系が全く異なる高い報酬の商品があるとすれば、当然高い報酬の商品を自然に売り込んでしまうこともあり得ます。
逆に言えば、報酬がどれだけ高くてもその仕事が好きではなかったり、報酬が低くとも高いやる気を持って仕事をしている人もいます。
それは、報酬とやる気が相関しないことを暗に意味づけているんだ、と気が付くヒントです。
失敗しない人は有能な人か?
失敗しない人はやる気のない人、そもそもできることにしかチャレンジしていない人のことです。ポテンシャル在る奴は盗むのが上手いし、成果出してる人から吸い上げるのがうまいんです。
ポテンシャル在る奴とない奴は必要な場所が違います。必ず必要なのは失敗を肯定する環境だし、成果だけを褒められてる環境はいつか病んでしまうと僕は考えています。
失敗を肯定しながらチャレンジを応援できる環境が必要だと。
手段の目的化に注意
さて、話が終わりに近づいてきたのでまとめていくと、部下や人を怒ること・褒めることは手段です。
「気持ちよく動いてもらう」ことが目的だと思っています。
その褒めたり怒ったりする手段は「人を動かすためのツール」でしかないので、ツールを使うことが目的になると人は動かなくなるんですね。
なので、人を動かすためのツールを過剰に信頼せず、今どうすればこの人は動きたくなるのかという根本に立ち戻ることが重要になります。
個人的には褒めることはやっぱり上下関係だと思う
普通の人間関係で褒める叱るってアプローチは変ですよね。
親子・先生と生徒って関係がそのまま応用されがちです。教育の弊害であり利点だと思っています。なぜこういうアプローチを取るかというと、教え方がそうだったからですよ。
上下関係としてそのまま捉えられている。
良いって評価されても価値を実感できないのかも、と少しでも疑問を抱いたら、ありがとうに切り替えてみてはいかがでしょうか。「ありがとう」でしか価値を感じられない場面もあるということです。
友達の引っ越しの手伝いをしたときに「よく出来てるね!」って言われても何か変だと思います。
道ばたに倒れている人を見かけたあなたが的確な救急への連絡と対処で助けたとして、相手から「素晴らしい手際でしたね」と言われても?となるはずです。
褒めるは相手を尊敬していないと成立しないのかもしれませんが、ありがとうの方が相手の気持ちがそのまま伝わります。
と工程の場面では、「褒める」という行動は少し第三者的な目線がないと不可能だと思うんです。
だからこそ「褒める」も「叱る」も深い理解がないと逆効果になる。相手を動かそうとして褒めると、「言ってるだけ感」が生まれるし、理解されてない人から急に叱られても反発されるだけ。
「相手への理解」だけにフォーカスすれば、褒めるも叱るもテクニックだから、そこまで必要にならないはずです。
何かの参考になれば。
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