アンチとファンは紙一重と言われるのはなぜか。
例えるとしたら、感情はある種のシーソーになっているんだと思う。
ファンはシーソーの左にいて、アンチはシーソーの右の極にいる。
実は端に行けば行くほど、すごく不安定なバランスの所にいるので、できる限り「中央の方へ移動したい」と思っているんだと僕は思う。
ここでいう中央はアンチとファンのターゲットになっている人です。芸能人とかアイドルとかインフルエンサー。
例えば、好きな人を失うのは不安だなあと言う感情があり、嫌いな人は見たくないし会いたくないし攻撃したいという感情があったとしますよね。
で、人はこれらをフラットに戻したい、と考えている。情熱的な恋愛が付き合って数年すると落ち着いてくるのもそうだし、一人を延々と嫌い続けられる人は早々いません。感情を沸き立たせ続けるのは辛いから。
つまり、波立っている感情を中央に持っていこうとするのは、人間の本質的なシステムの1つなんだと思う。
なので、端にいればいるほど、逆の極・中央に向かって動きたいのだ。不安を取り除くために。
強烈なファンほど強烈なアンチになりやすいし、強烈なアンチほど強烈なファンになりやすい。
それは、シーソーの中央(つまり支点)の部分にいるのが「ターゲットになっている人」だから、その人はちょっとした行動で、シーソーをバタバタと動かすことが簡単にできてしまうからだ。
シーソーが動くと感情が動く。
感情が動くと行動が動く。
行動が動いたら既にファンかアンチかなんてどっちでもいい話だ。
良く考えてみて欲しい。
だって、口コミをしたり、何かに書いて書いたり、それがネガティブかポジティブかというだけで、行動を起こしてしまっていることには変わりないからだ。
実のところ、ポジティブかネガティブかは文脈によって規定される。
なので、Twitterでネガティブな意見を書いている人のツイートから、「じゃあ見に行ってみるか」って人が10人産まれ、その人達はそれぞれが握手券を3000万円分買うような猛烈なファンになるかもしれない。
じゃあ、アンチの存在はターゲットになっている人にとって、ありがたい話なのか、迷惑な話なのか、どうなのか…って考えると微妙なところだと思う。極論だけれど。
もちろん、僕も批判を受けることがあるんだけど、それに返事をすると大抵「ありがとうございます」と返事をもらう。
これはつまり、行動を起こした時点で「ファン」と「アンチ」という境界線は既に溶けはじめているんじゃ無いかという仮説に繋がる。
何らかのテーマがあれば必ず「賛同」と「反対」あとは「保留」に別れる。永久保留もなくはないだろうけど、良く見てみたら51%は賛成かもな、と、顕微鏡で見るように細かい感情をチェックすることができるはず。
アンチがファンを生む場合もあるだろうし、逆もあるだろうし、有名になりすぎて嫌いになった、って複雑な感情もあると思う。
つまり、誰かに対して行動を起こしている時点で、好きか嫌いかなんて考える意味がそんなにないんだ、と僕は思う。
だって、時間を使っていることには変わりが無いし、時間を使っているということはつまり、自分の人生をそのターゲットに向けて捧げていることに変わりは無いからだ。
ターゲットの言動で心が動く。
大切なのは好きか嫌いかじゃない。
心が引っ張られているかいないか、だ。
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