今回、無能な怠け者と有能な働き者ってテーマで、論理とセンス。ロジックとセンスから分析して考えてみたい。
センスがある人を否定するときに論理で戦おうとすることがあると思うけど、センスがない=論理の土台がそもそも狂ってる場合がある。
論理の内側には破綻がないんだけど、論理の前提がそもそもおかしいってケース。
例えば、暴言とか攻撃とかOOハラとかほぼ全部これに分類される。
暴言吐いてる人って「これが一番素早い情報の伝達だ」って信じてそれを使うんだけど、駅とかで怒鳴ってるおっさん見て「ああ素早い情報伝達で素晴らしいな」って思う奴は一人もいない。
安直と素早いを勘違いしてる。5分先の所にジャンボジェットで行くようなもんで、「すみませんが商品交換お願いできませんか」と言えば早いのに「店長呼べ!転調出てこい!」で余計に時間をかけてる。
論理には周りと馴染ませる力があり、感情には周りから差異化する力がある。論理を否定してる人は「自分が周りとなじんでないこと」に困っており、センスを否定している人は「自分が抜きん出ていないこと」に困ってる。
センスはもともと「周囲と馴染む」ってことができない。だってこうキックすればこう飛ぶとかプロにいくら説明されてもできない。それはセンスの世界だから。
「何gの荷重を爪先にかければいいんですよ」「そしたらホームランです」って説明されたところでできないはず。
センスから入り→論理で定石を学び→センスを辿るような気がする。センスのタンクへ徐々に蓄積されてくし、濃厚になっていくけれど論理はいつでも入れ替え可能なもの。
センスを磨いた後
「適当で遊んでそうだけど凄い人」って何かをきちんとやることに興味が薄い割に、本質的な部分を外していない気がする。
遊んでそうだけど高い結果を残してる人は24時間常に吸収してる。勉強してそうだけど結果を残せない人は8時間の講義中しか吸収してない。
最近知った言葉の中で刺さったのは「能力と知識・情報量はまったく別である」ってことば。何かを知らなくても高い能力の人もいれば知ってても低い能力の人もいる。
これはなぜか。
多分、そこには想像力の差があるんだと思ってる。
想像力とは、「理解できない何か」に出会ったときに、疑問に持つ姿勢です。異なる物への興味です。
想像力がないと「OOはおかしい」みたいな結論に陥るけれど、想像力があれば、背景をじっくり考えられます。
理解できない = 反射的に攻撃してしまう人、沢山見かけますし、僕は自分の無能さを何度も呪いました。
でも、無能さを呪ったからこそ、人より5倍はやることを意識した。だから結果的に多少成果が出るのが早かったんじゃないかと思っています。
で、結局の所、ちょと有能な方に近づくことができた人って、元々が無能だからこそ「人より無能だから頑張ってみよう」と思っている人のことで、有能だけど最後の結果では負けてしまう人って「まあやらなくてもいいか」と思っている人のことだと思います。
結果的に元無能な人ほど、最後に有能になっていくんだと思います。
例えば、小学生の時に足が速かった人に足の速さで負けていても、そこから40歳までランニングを続けて、(元)足が速かった人と走り比べたら、どっちが勝つでしょうか。
もちろん、元足が速い人がトレーニングに日々励んでいたら難しいでしょうが、遅い人だけがトレーニングしていたんだとしたらほぼ勝つことができるはず。
これって、努力と才能の関係性をすごく如実に表しているなと。
若いとき程才能の比率は大きく、年をとるほどに努力の比重が高まっていく。
この辺りにも才能と努力について書いたので見てみてください。
人生は努力か才能か?才能とは何か。努力で才能は越えられるのか。裏切らない努力。
無能な働き者と有能なサボりにもう一度テーマを戻しましょう。
「適当で遊んでそうだけど凄い人」って何かをきちんとやることに興味が薄い割に、本質的な部分を外していない。
この部分、本質を見極める力はセンスです。
遊んでそうだけど高い結果を残してる人は24時間常に吸収してる。勉強してそうだけど結果を残せない人は8時間の講義中しか吸収してない。
この部分、吸収をどれくらいするかは努力です。
努力とセンスの組み合わせによって結果が出力されます。
弘法筆を選ばずなんじゃなくて、筆を選ばなくてもすごい作品を書くことはできるけれど、筆を選べばとんでもない作品が生まれる。
一般の人なら筆を選んでいる間に、弘法は一流の作品を作ることができるということ。
感情はなぜ重要なのか。論理と感情は両方重視しよう【ロジックか感情か。論理的思考の落とし穴】
最近、論理が重要視されている(ビジネス書とか)ので、「感情の重要性」をお話ししたいと思います。
マーケの古典には「人間は感情で購入し、理屈で正当化する」ってほぼ書いてありますけど、最近、ビジネス書で数字やロジカルシンキングが重要視されすぎてますねえ。
これは、新しく見せるためのひとつの戦略だと思う。だって文字数とかページ数とかコラム何個かとかで買う本決めないからなあ。ふつーに直感で買いますよね。
感情がなかったと仮定し、論理だけなら意志決定はどうなるか
外出中に友人から「何を食べたい?」と聞かれたらどう決めます?
論理で考えていくと、
- エネルギー
- カロリー
- 栄養
- 価格
- 見た目
- 料理提供の時間
を全て計算する必要があります。で、価格か栄養かで拮抗しました。
価格か栄養か。どっちが重要かを決めるのは感情なんです。論理だけだと、延々計算が終わりません。
人間は、最後は感情でものを決定します。
1000種類の酒
とか論理では絞り込めないですよね。そもそも論、感情がなくなると議論全てが意味を無くします。感情がない→どんなに知性があっても決断が出来なくなるからです。
つまり、最後は「これでいいや」で決まるんです。
これからの時代は感情優位になる
論理は勉強できますが、感情は比較的「固有」に育ちますよね。固有ってつまりそのものが価値なんですよ。増えないからです。
「計算方法」「フレームワーク」とかいくらでも複製できるし、だれでも学習できる。
コピーができる時代になったということ。凄くコピーがしやすくなったんですね。そういうものが氾濫する時代は価値が下がるんです。
こういう時代だからこそ反比例して、複製できないものの価値が上がっていきます。
論理はAIが代替するようになるので、感情が優位な社会に近づいていきます。論理の価値は下がっていきますが、でも感情は増えない。だから相対的に価値が上がる。
つまり、固有=複利で増えるような価値になっていくんですね。
カーネマンのファスト&スローでは、
人は好き嫌いで決める(どんなに考えたつもりでも)
でも、極端にしていくと現実からの解離になりますから、
分析で物事を決めることの問題点と論理的思考の落とし穴
分析的に意志決定することの問題は
与えられる情報が正確で、確定的で、必要充分である必要があります。
こんなこと、現実にはあり得ないですから。笑
アルゴリズムで考える作業はひたすら時間がかかるんですね。変化の早い現代においては、時間がかかると致命傷を招きます。
適当に決めろって訳ではないけど、ひたすら時間を掛けたらいいものができるわけじゃない。プロセスの重大性が大きすぎて、分析の過程が全てになってしまうことに問題がある。
どこか一カ所外すと全く違う結果が出力されてしまう。
論理と感情(直感)のバランス
論理の重要性が響くのが自信がなくなってるときだと僕は考えます。基本的に外部から引っ張ってきて採用するものだから。自分を信じる気持ちが多少上回ってるときは直感が響くと思うのですよね。
その揺れ動きの中で生きてるんです。どうやるかは論理で、何をやるかは論理じゃないところから生まれます。
カーネマンのファスト&スローにあるように、論理と感情は別のシステムが稼働してます。
論理は刺激を与えないと稼働しないんです。最初に刺激を加える1手が論理じゃ無理なんですよ。
感情と理論はセットで。ロジカルシンキングと直感はセットで。
ほどよいバランスを探って欲しいんですね。
理性だけだと選択不能、非合理になっていく
感情だけだと大事なことを見落とす
感情というじゃじゃ馬を理性でいなすことにより、最高のパフォーマンスが発揮できると。
つまり、感情と理性をセットにすることで人間は本領が発揮できる。
論理と感情(人間性)をバランス良く鍛える方法
論文の書き方で論理を強化できます。東京大学出版→知の技法って本があって、質問力が上げられる。
最低限はロジックの基本を体得したほうがいいと想います。文章書けない自覚はあるのに論理が破綻しているからテクニックが活きないとか。
僕はあえて文章を下手に書いてますが。
どういう風に何を配置したらどういう人が反応するかを考える。ただ漠然とアドセンスクリックされたら良いなではダメです。
いくら本読んで勉強してても出してみなきゃ分からない世界がある。日記でも良いから、しょうももない記事で良いからやるべきで。
ブログ変に収益あげようとかして何匹もウサギ狙おうとするから何も手に入らないんです。単純に書いた物にコミュニケーションが生まれるのは楽しいってところから入ったりすること。
一方で分析しながら続けていく。これが大事。
センスは量である程度身につけることができる。ある程度。
センスを身につけるにはどうしたら良いですか?という質問があったので回答していきたいなと思います。
ただ、
他の人のスゴさを説明するときにセンスって言葉を使ってしまうと、それじゃ何も吸収できたことにならないんですよねえ。さっきの話と矛楯するようですが。
インプットに気を配ること
面白い文章を書きたいなら面白い文章を読んで、映画を見て、漫画を読んで、ドラマを見て、小説を読むこと。
まずは量を求めること。センスがあると言われている人達はかなり書いてる。まず量が違う。
超新星のように見えてもそれは世に出てないってだけ。
メイウェザーが天才だとしても、練習してないのかと言われたら違うはず。メイウェザーのように戦いたい人がボルトより練習してなかったら変ですよね。
せめて量では勝たないと土俵作りで負けます。
本当に最上位の人達は天性の勘でやってたりするので、そこに憧れちゃダメ。差分を埋められなくて挫折するから。
現状と理想の差を埋めようとして人間は努力できるけど、その差があまりにもでかすぎると挫折する。
だから理想論とか投げつけられると多くの場合しんどいです。
とりあえず量をこなすことです。
センスとはそもそも何なのか?
「センス」は言葉にできない良さと定義することもできるけど、良さが何か分かるためには良い物を知っておく必要がある。
どうしようもない言葉を扱い、どうしようもないストーリーしか読んでいない人は、そういったものしか出力できない。
人間の出力は必ず入力に依存する。
食った物でもそうだし、脳に入れた物でもそう。
米だけ食っていて「水色の大」が出てくることはあり得ない。あるのかもしれませんが、多分無いですよね。
自分に「何を入力させるのか」はすごく大切な観念。
知識・精神的に入力した物
口から吸収した物
が人間を作る全て。シンプルだからこそどちらも重要で、気を配る必要があります。
以上、難しいことをごちゃごちゃと書きましたが、何かの参考になれば嬉しいです。
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