僕が定義する「価値のある偏見」とただの「人に向けられる差別意識的な偏見」の違いをこの記事では話していこうと思う。
OO人はだめ、OOができない人はだめみたいな偏見は取り除いていって欲しくて、そうじゃなくって「自分のフィルターを通して表現すること」をこれからは偏見と定義してもらいたいと思っている。
そして、
そしてそのフィルターがいつでも取り替えられるかどうか
が大事。ある種の「機能」として偏見を利用し、フィルターをいつでも取り外すことができるのかどうかを改めて自分に問いかけてみて欲しい。
車のガラスのコーティングのようなもの。後から取れるのかどうか。ある種の機能として、照り返しや直射日光から守ってくれるかもしれない。あなたを守ってくれるものかもしれない。紫外線カットの効果とか、偏光レンズてきな役割を果たしてくれる。
でも、一生かけ続けていたら何か大事なものを見落とすことになる。
ある種、世の中を見やすくなるけれど、サングラスを外したり、窓を開けることができればまた違う景色を見ることができるようになる。
でも一生ガラスが開けられなくなるのはしんどいし、顔に接着剤でべっとりさせないことは何よりも大事。
「付け外しが自由」であることが最も大事。ある種のフィルターは交換できないといけない。
でも、ヒットする商品には必ず偏見がある。
これが大事という偏見。
でも、意識しなければ人間は「これはだめという偏見」を備えているものだ。
ある種の絞り込みの機能であることには代わらないけれど、ポジティブな絞り込みなのか。ネガティブな絞り込みなのかをもう一度考えてみて欲しい。
コミュニケーションエラーから争いや喧嘩は生まれる
コミュニケーションのエラーをできる限り減らす
ことを意識して欲しい。じゃあ、コミュニケーションのエラーとは何か。
例えば「怒ることでそもそもコミュニケーションをする気がない」とか「一人を大勢で懲らしめてやろう、としか考えていないので、元から対話する気がない」とか「ある種の新しい答えにたどり着くつもりがなく、自分の答えに相手を誘導すること」しかできない、とか。
そして、何かを言わなすぎることによるエラーより、必ず何かを言いすぎたこと・やりすぎたことによるエラーの方が悪影響がでかい。
よくよく考えてみて欲しい。
「全く知らない人、見たこともないし、聞いたこともないし、頭の中にイメージすらできないOOさん」
「平日5日間毎日職場で顔を合わせるOO部長、その部長は毎週のようにパワハラをしているし、LINEでセクハラをしてくる」
さて、どっちが批判しやすしいだろうか。なので、何かをしないことによるエラーよりも、しすぎることによるエラーの方がほとんどの場合影響が大きいのだ。
つまり、コミュニケーションを全くとらない・全く知らない土地に住んでいた「OO人」は差別の対象にはならなくとも、一度知ってしまうと差別の対象になる。
そして、文化を知ることでOOはおかしいのだ、という批判が始まる。
けれど、ある意味で肯定はできても、無意識では肯定できない場合がある。
どうしても理解できない文化というものは必ずあるはず。(食べ物とか)
なので、僕らは元々壮大な誤解の中で生きている。
どんなに人の価値観を尊重したい、俺は善良な人間になるんだ、、って思っていても結局自分の価値観が絶対。
頭では人の価値観を尊重しなくちゃいけないことも分かってるはずだ。
相手の価値観を理解することは重要。
でも「違うなあ」と思った上で自分の価値観で生きるしかないですよね、僕たちは。
だってそれしかできないんだから。
コメント