自分の軸についてこの記事ではお話しします。
自分の軸とは何でしょうか。つまり、簡単に説明すると、
「何を見せて何を見せないか、それをどれくらい見せ、どれくらい見せないか」
これらを検討していくということですが、要するに自分の売り・強み・生き方・得意・弱みなんてものを考え出した時点で演出はスタートしています。
ですから、演出は「顧客をだましている気がする、、」などという言ってしまう人は、そもそも 「演出」を誤解しているか、もしくはビジネスには少なくとも向いていない、ということになると僕は思います。
生きている、ただそれだけで我々は演出から逃れることはできないのです。その現実から目をそらしてはいけません。
演出は、こちらのためではなく、相手のためにするものなのです。
ディズニーを思い出してください。知られてはいけない部分が沢山あるはずですね。
正確には知られてはいけないのではなく、見られないように演出しているわけですが。
それを隠しているのは誰のためですか?
「OOの中にOOが入っている」と言わないのは誰のためですか?
「OOは電気で動いている」と言わないのは誰のためですか?
どう考えても、暴利を貪るためじゃありません。
全てお客さんのためにやっていることだからです。お客さんのための演出なら、どんな演出であれ、お客さんはそれを歓迎します。これをとにかく頭に叩き込んでおいてください。
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自分の軸を持つなら作り込まないこと
そして次の「作らない」ですが、これは決して「ありのまますべてを見せていけ」「自分の意見を全てさらけ出せ」「そのままで挑め」 という意味ではありません。正確に表現するなら
「一本の軸を持って、その軸を常に見せ続ける」
ということです。この軸は、自分で見つけるしかありません。自分の軸にせよ会社の軸にせよ、他人に軸は見つけることはできないですから。
そして、見つかったら、それを常に開示しておくこと。これを心がけてください。
開示しておく、見せておくと言っても、別にいつでもどこでも言葉にして解説する必要はありません。
そうではなく、この「軸」というのはすべての土台であり根幹であり根本であり、あらゆるものを生み出す源泉なのだと理解してください。
すべての言動、全ての行動、すべての企画、すべての商品、すべて、、とにかくすべてのことがこの「軸」から出てきます。
なので、別に軸についてわざわざ説明することはないのです。普通に生きていれば、そしてビジネスをしていれば、「感じてもらえる」のですから。
ポイントは「黙る」ってことです。スーパーで毎回のようにいやーおれはコカコーラしかダメなんだよね…なぜなら香りが云々…デザインが云々…この缶にはこういうこだわりがあって、他のメーカーよりも原価率がO%違ってなどと言い出したら明らかに鬱陶しいし、むしろ何か違和感を感じるはずです。
数歩妥協しても「やっぱりコカコーラだよね」でカートに1ケース突っ込めばいい。
むしろ、毎回何も言わずに「コカコーラ社製飲料5種類を1カートンづつ買っている姿」をx10回誰かに見せたら、「あいつはコカコーラ狂なんだ…サンガリアの炭酸なんて薦めたらだめなんだ…」ってことを超強力に感じ取ってもらえるはずです。
どこに行ってもコカコーラ。
そういう行動を踏まえるから行動から軸がにじみ出てくる。
いいですか。
ビジネスにも軸は重要だ
余談です。
自分を突き詰めていくと、ある種の軸が表現されていく。これは価値観、信念、コアと言っても良いでしょう。軸=軸と共鳴できるんですね。
ネット社会に特有の現象です。全世界から同じ軸を持つ人が集まるからです。
パイは60億人。ネットに繋がっている人だけでも10億。日本だけでも見込み客5000万人って世界です。コアを表現すると勝手に集まるんです。
ディープvsマスって議論がありますね。ニッチビジネスって言い方がありました。軸を表現すると価値観や信念に共鳴する人が集まるようなそういうディープなビジネスが廃れないようになっていく。
なぜ不当に(というと言い方が悪いんですが)高いものが意外と売れたりするのかってものを考えてもらうと、軸と軸が共鳴するからなんです。
この原理原則は不況だろうが好況だろうが変わらない。信念の共鳴。こっちにフォーカスしましょう。マス視点は辞めた方がいいです。交換が効くから。
この先は「どうやっても交換が効かないもの」を提供していかなければ厳しくなります。
軸は言葉ではなく行動で示せ
この「軸」は、言葉ではなく背中で語るものです。口で説明するものではなく、行動で示すもの。
そして、言葉ではなく、結果で見せるもの。そう理解しておいてください。
「軸がぶれる」というのは、いろんな企画や言動などが一貫していないことを指します。
デザインを軸とするのなら、とにかくデザインは洗練されていないといけない。コストに転嫁されようが。
コストを軸とするのなら、とにかくコストは抑えなくてはいけない。見た目は悪くなろうが。
「軸・意見がないのにあるふりをするな」
ということは言っておきたいです。言葉だけで勝負している人が多すぎるので。
そんなんなら、黙っておいて自然に伝わるまで自分を鍛えた方が良い。
「こう言えばもっと素敵な印象を持ってもらえるのではないか」
「こう言えばしっかりした考えを持っていると思われるのではないか」
「こう言えばOOさんから信用してもらえるのではないか」
「こう言えば売上が上がって儲かるのではないか」
なんて情けない発想で「軸」みたいなものを作り上げないことです。
あとで困るのは自分ですから。
軸は、内からにじみ出てくるものです。必死になって表現する物ではありません。
本当の軸や意見というものはどれだけ布でくるもうが染み出てくるし、どれだけしっかりしたルイヴィトンの箱に閉じ込めようが、金庫に突っ込もうが、それをぶっ壊し、あるいは数ミリの隙間から出てこようとします。
こういう奴です↓
ある程度押さえ込んでも、いくらでもにじみ出てくるし、何としても箱をぶっ壊して出てこようとする。
だからこそ、言葉ではなく、背中で語ることができるのです。それが附に落ちるまでは、自分の軸は決して強化されません。それはハリボテだからです。
まだ見つかってない場合、急いで見つけるよう努力してください。
言葉が強い人、ズバズバ言う人は実は自分の意見がない
言葉が強い人、そして押しつける人って実は自分の意見がない。僕はどれだけ強く言うことがあっても、絶対に押しつけない。最後は本人に委ねる。
なぜなら、押しつける人って、意見の中身が形骸化してるから論理の再構築って意味の対話ができない。論理の中身を全く疑っていないから言葉が強くなるはずだけど、「完全なロジック」なんてありえない。数学ですらとりあえずこれをルールとして設定しておきましょうね、という不完全なニュアンス。
じゃあそのへんの僕たちが考えたロジックなんて土台はくしゃくしゃだわ、上に立っているものはほっそいわ、鉄骨の部分は弱いわでとんでもなく脆弱なロジックのはず。対話の本来性は相手のロジックの良い部分を取り入れて、自分のロジックの悪い部分を改修していくことに意味がある。
でも、言葉が強い人は完全に意見を盲信している。盲信しているのは中身を充分に確認していないからなんじゃないかな。
もちろん、場面として断言がある程度必要な状況もあると思う。なので、もちろん断言しても構わないんだけど、そこで「お前はだめ」とか「いきなり怒ったり」とかは不要のはず。丁寧な対話が少しも成立しないし、論理の交換ではなくただの投げつけになっていくから。
つまり、言葉が強い人って「答えありき」だから対話ができないんだと思う。答えを形成している中身がないことがばれることが怖いし、自分で論理を丁寧に展開して確認することが怖いから、答えだけを盲信して人に投げつける。
批判だって敬意があればしてもいい。でも、攻撃と本当に違うのかは一度考えてみる必要があると思う。
僕は自分が持っていないものを「まあ持っていなくても生きていけるよね」と言って自己洗脳することはしょっちゅう。(言葉が強いまま投げてくる人や、直接攻撃してくる人などには反撃はする)
で、自分はズバズバ言うって前置きした人は単に性格の悪い人だと思う。本当にズバズバ言ってくる人って、普段優しいのに、時々怖いくらい本質突いてくるから。
ズバズバ言う人の考えていること・性格、問題点について
「ズバズバ言いますよ」って言った人は全てのコミュニケーションを戦争で解決しましょう、と言っているのと変わらない。もちろん悪意がない場合もあると思うけど、無邪気だから全てが許されるわけではないように、無知は罪。
とある場所ではじゃんけんで解決したり、話合いで解決したり、その場をこちらから立ち去ったり、色々な解決方法がある。ズバズバ言う人はその中のコミュニケーションの一つしか選択できないと言うこと。単純にこれってかわいそうなことだなと思う。
いくつか考えてみて欲しい。届かない言葉には複数の原因がある。
まず始めに目的設定の不十分さ。講義すること自体が目的化している場合とか、具体的なビジョンが描けていないのに、とりあえずダメ出しをすることが目的になってしまっている場合はこれ。
次に手段の選択の安易さ。本当にその方法が正しいのかを充分に考えていない。テロとかもこれだと思う。結果的に相手の要求を聞き入れにくくしてしまったりする場合がある。
その場限りのヒロイズムに酔うことなく、結果に結びついていなければ、どこに問題があるのかを真剣に考える必要がある。
同僚があまり仕事をしていない。自分は仕事をしてほしいと思っている。「で、お前は無能だ!!」と叫んで、自分の仕事をして欲しいという目的は達成されるのかどうか。
単に喧嘩になって終わると思う。目的は喧嘩をすることだったんだろうか。
そして、単純に自分の方が仕事をしていない可能性だってあるし、成果に結びついていない仕事っぽいことばっかりをやっていて、その同僚は自分の10倍やそれ以上の結果を残している可能性もある。このあたりを一度慎重に考えてみる必要があると僕は考えている。
誰かの何かを馬鹿にする行為って「いつか行きたくなるかもしれない道」に、自分でマキビシを巻いているのに気が付こう。OO業はクソだ!って言いまくってた人がまあ自分で行かないにしても、行かざるを得なくなったらマキビシで自分が苦しむ。あくまでもこっちが素敵よねってだけで逆がダメだって事ではないよね。
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