努力は裏切らないの?って問題について考えてみます。
人が出す結果はすべて努力に結びついているものだと思う。どんなに野球の才能があっても一生勉強だけしてたら野球の才能には気が付かん。
センスは温泉の源泉で努力はそれを掘ること。結果出している人はおしなべて努力してる。それを頭の良さだけに押し込むのはそもそも努力してない人の発想だと思う。
僕は努力はマリオカートみたいなものだと思ってて、落下がないコースで前に向かって努力していたらその内ゴールできる。
けれど、もし全体に壁があっても逆に走り続けていたり、周りに壁のないレインボーロードでハンドルを操作しなかったりしたら、努力は裏切る。いつまでもゴールできなくなってしまうから。
野球の才能が0なのにプロを目指すのは、ハンドルが固定されたレインボーロード。
もちろん、いきなり1000ccみたいなコースに突撃しても太刀打ちできないので、自分の車をチューンナップしたり、技術を向上させたりしてから50→100ccと徐々にレベルを上げていく必要がある。
「ベクトルの設定の仕方さえ合っていれば」努力は裏切らないと思う。
だから、努力は別に成功を約束してくれる魔法じゃない。
使っちゃダメな魔法を使ったらそりゃ罰則もあるし、振ってもゴミが振ってくるくらいの効力しか無い魔法を使っていたらいつまでも結果や成功には結びつかない。
僕は基本的に努力や学習の結果、楽をできるようになることはありだと思うんだけど、学習のプロセス自体を簡略化していくことに対しては微妙だと考えてる。
応用が利かなくなるから。
無駄な努力を負う必要はないけれど、大学とかでああこれだけやったら単位が貰えるんだなと考えていると何も残っていないのと同じ。
勉強自体で何かを得ようとし、勉強して得た技術でまた何かを得ようとするから自分の筋肉になる。社会課題の解決とかになってくるとまた話は別だけど、ある程度簡単な問題ならシンプルに解決できる。
独立ってアプローチで考えるなら、
- スキルを付ける
- 価値発揮できる所に移動する
- 技術と信用を複利にする
これだけですごくシンプル。
まずは何らかの技術を付けること。手に職を付けたり、研修したり、勉強したりして自分の中に能力を積み増していく。
次は価値発揮できる場所への移動。料理したことが無い人がいきなり料理教室の教壇に立って教えられるか?と考えると違うことが分かると思う。
技術と信用を複利にする、アセットと言ったりする。リソース的な資産を自分のビジネスに残していく。信頼してくれるお客さんでも良いし、コンテンツでも良いし、囲い込めるような何かを残していく。
株で考えるなら、
- お金を貯める
- お金を株に替えて増やせる状況にしておく
- それを複利で増やしていく
こんな感じのイメージ。努力には必要な順番があり、効果が高いポイントがある。
じゃあこれから投資したいなら本を読んだりセミナーを聞きに行ったり、コンテンツを購入して勉強したりするのは必要な努力だと思うけど、筋トレをしたり、ランニングをしたり、転職活動(これは間接的に給料を増やしたり投資の時間を増やしたりする意味で必要かも)をするのは効果が低くなる。
効果の高いポイントと低いポイントを見極めて、高いポイントに自分のリソースを突っ込む。
そうすれば努力は裏切りにくくなる。物事は優先順位なので、できる限り成果が出るポイントで作業したり時間をかけたりお金をかけること。
成果が出ない場合ってほとんどの場合優先順位付けが間違っていて、例えばあなたの優先順位が本来的に野球ではなくてサッカーなのに、野球しているのも意味が無い。
- 分野の優先度を決めて
- その中でやることを決める
これを間違えないようにしよう。
努力をできる限り結果に結びつける方法を回りくどーく書きました。↓
自分の本当の理想がわからない、やりたい仕事がない・見つからない人へ
相対的な才能論
僕は誰しも、自分の中に「相対的な才能」ってのをもっている、と思っています。
つまり、
勉強より運動が得意です。プールよりバスケが得意です。国語より数学が得意です。
みたいなものですね。遺伝的特質のことですね。当然才能って、最初から気が付かないわけですよ。色々「試さないと」気が付かないんです。で、これ、
神様「こいつには野球の才能を与えたのにサッカーしかやらないなあ、、」
みたいな逸話がありますけど、僕たちが磨くことができるのは、
いろんな分野を大量に試す力
だと思うんですね。何でもチャレンジして、「相対的に才能がある分野」を見つける力を磨きましょうとこの記事では伝えたい。野球をやってみて、サッカーをやってみて、ラクロスをやって、ラグビーをやって、、
野球だけしかやったことがなければ、その他の才能には気が付けませんから。まずは相対的な強さに気が付かないといけない。
ちょっと話をすすめますが、「本人は努力だと思っていないのに、自然と努力できている分野」が、本当に才能があるってことだと思うんです。
つまり、「自分には才能がありそうだし、頑張りたいのに、どうしても継続できないなあ、、」とかは多分才能がない分野。
「はまってしょうがない&改善だけに労力を割くことが出来る分野」が「才能のある分野」なんだと思うんですね。前も言いましたが、継続できないものを継続しようとするのは不自然なエネルギーの使い方です。だってそれ本当に好きなんですか?って感じになってきますし。話がややこしくなってきましたが続けます。笑
Aくん「サッカー日本代表になる産まれながらの資質があっても、そもそもサッカーなんて練習したくないし、現にしてない場合=才能がない。空手の都大会で優勝できる資質があって、めちゃくちゃ練習して、練習が好きで、都で優勝もした場合=才能がある」
だと思ってます。
世間と比較した才能の高低やスゴさじゃないんです。自分のなかで相対的にどうかだと思うんです。そして、それを発揮できているのかどうか。そもそも論、他人と才能を比べても意味ないと思ってます。あなたは他人じゃないからです。どれだけ頑張っても他人にはなれないんです。
他人の才能と自分の才能を比較し、指をくわえて見ていることは人生の無駄。だから、他人と比較した才能についてはここでは無視。自分の中で「相対的にどうなのか」って部分を考えて欲しいんですね。
僕たちにとって、努力することが出来るのは相対的な自分の向き不向きを大量に探ってみることだけなんですね。才能と努力は別で存在しているのではなく、包含関係になっているようなイメージ。
※あくまでも僕の解釈です。
で、「自然と努力できる分野」を探す活動を日々続けていれば、あなたが元々持っていた、相対的な強さに気が付くことができるはず。あなたが「自然と努力できる分野」に本当の才能があるってことを伝えたい。
これは気が付くまでひたすら続けてください。年齢なんて関係ないです。楽しく生きたいのなら、ほぼ義務といっても良いでしょう。才能がある分野が見つかっていないのなら尚更ですよ。
努力しているけど結果が出ない人の原因
よく「頑張っているけど結果が出ない人」という人がいますね。ビジネス的にそんな人もたくさんいるでしょうし、僕もコンサルなどで教えていた時、何人もそういう生徒を見てきました。しかし、その生徒たちに共通しているのは、決して生まれ持った頭が悪いとか、実は勉強していないとか、偏差値が低いとかそういうことを言いたいのではなく、
「方向付けに関する僕のアドバイスを聞いていない」
ということ。方向付け=時代のルールと言っても良いし、ある程度色々なことを理解してからじゃないと分からないとも言えます。正しいフォームは20年プロ野球選手を見てきたコーチと、3時間前に野球を始めた初心者のどちらが理解しているでしょうか。
裏切らない努力・報われる努力とは何か。努力は裏切らないの?
しかし水面下ではきちんと方向付けを行い、その方向に向けて「がむしゃら」 に頑張ることが、結果もやっぱりほしいよね、という人には必要不可欠なんですね。自転車のハンドルを固定して漕いでるのかってことを考えてみてください。
いくつものルートを知っていて「ルートを知ったその上で絞り込んでいるのか」ってことを考えてみてください。ルートを知らずに絞り込んでこの道しかないぞとやっていると、いつか行き詰まる時が来ます。登山で一番しんどい道を選び、しかも工事中だったってことがあり得るわけです。
様々な壁や、進んでいく難易度や、環境を理解しながら道を決定しないといけません。本来はね。
報われない努力とはどんな努力なのか
成長したいなあ、今よりも優れた人間になりたいなあ、という思いはこんな記事を読んでいるくらいなので、当然持っていると思いますが、その進化、もうちょっと突っ込んで言えば、「自分が望む結果をもたらせてくれる進化をするための方向」を決めることも、努力の範疇に含むべきです。
価値を生む、新しい価値を生む、自分にしか提供できない価値を生む、そのためにはルールを知ることが必要になります。人々の現在の立ち位置を正確に掴むことが、凄く大事になります。
そして、自分の正確な場所を把握し、マイナスにもプラスにも捉えず、卑屈にも独善にもならずに極めてフラットな判断をすること。そうでなければ、基準も何もなく、既存の常識や通常流れるルールすら見えないからです。
つまり、時代のルールを正確に把握し、進むべき方向を決めてから努力することが極めて重要になってくるということです。これができないと、「間違った努力」と言われます。
例えば、寿司職人になりたいのに延々とギターを練習しているとか。ここまで極端なことはまあないでしょうが、程度の差はあれ多くの人がやってしまっていることです。
天才は努力の重要性を残しています。凡人は才能の重要性を見つめます。つまり、才能はひたすら辛抱の先にあるものだと。天才と呼ばれる人達は常に「努力」の重要性だけは一致する。ここから、何か見える物があるのではないかなと僕は思います。
人生は才能か努力か。努力と才能と年齢の関係性
若いときほど才能って軸が強く、50とかになってくると努力の範疇がデカくなってくるんだと思う。
で、怒鳴り散らす老人とか、パワハラするおっさんとかって、多分その面の努力がなかったんだと思う。感情のまま流されたから、論理の軸が弱まってor論理のこじつけで感情的になっていってしまったんじゃないかなって。
そして、常日頃から努力で解決している人は他人の成功を努力で認識する。
あまり努力していない人は「才能」「センス」に何かを求めようとする。
自分がどうやって結果を出したかは、他人が結果を出したときの反応で分かる。なぜなら、経験則から他人の結果までのプロセスを予想しているから。
「あいつが結果を出したのは悪いことをしたからだろう」
と考えるのは悪いことをして結果を出そうとしている人。
「あいつが結果を出したのは毎日の努力の積み重ねだろう」
と考えるのは毎日の努力の積み重ねで結果を出そうとしている人。
大事なのは努力か才能か?考えてみた
自分の分野と24時間365日結びつけると一流になる
量は肉体の差を乗り越える
あんなにセンスが付くまで努力したんだなならあってるけど、
あの人はセンスがあるからいいよは間違い
センスがあったんだね、頭が良かったんだねってセリフ
自分自身で努力している人は、例えば慶應に入った人を見たときに「努力したんだなあ」となるが、努力していない人は「頭が良くて羨ましい」となる。努力していない人は嫉妬するようになるし、思考が安易になってしまう。
つまり、一番最初に結果を出すって考えたときに、自分が何を担保にしているかが分かる。
実は、自分が努力をしていない人ほど他人も才能だと考え、とにかく努力して結果を出してきた人は、他人の結果の原因を努力に求める。
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